渡月亭は天下の名勝として名高い嵐山、大堰川の清流にかかる『渡月橋』の南詰にあります。
周辺には世界文化遺産・天龍寺や、皇室ゆかりの門跡寺院の大覚寺、京都で最古の神社である松尾大社や、源氏物語“賢木”の巻にも記述があり恋の社といわれている野宮神社、角倉了以とのゆかりが深い千光寺など、多くの史跡・名所に囲まれています。
また四季折々の豊かな自然も魅力。
春は桜、若葉がみずみずしい新緑、夏は風流な鵜飼、
秋は山一面を彩る紅葉、冬の水墨画のような雪景色。
ここには、千年の歴史と浪漫がすぐそばにあります。
また、様々な交通機関でのアクセスも便利です。
阪急・嵐山駅から徒歩5分。
京福電車(嵐電)・嵐山駅から徒歩5分。
JR・嵯峨嵐山駅から徒歩15分。
市バス・嵐山公園停留所から徒歩1分。
京都バス・中の島公園停留所から徒歩1分。
お車でお越しの方へ、駐車場も有。(10台)
長きにわたり都として歴史と文化を育んできた京都。
元来京都は海の幸も山の幸もないところで、その昔、今ほど交通が発達していない頃、料理の素材としてはあまりいいものがなかったと云われています。
今や芸術とまで云われるようになったのは、京料理に携わっている先人の料理人の大変な努力があってこそ。古くは鎌倉時代~室町時代から脈々と受け継がれてきたといわれる日本の伝統文化です。
京会席で味わうのは、料理だけではありません。
部屋の設え、床の間の掛け軸や生け花、料理を盛り付ける器…そうした料理を取り巻く全てを“おもてなし”として、それ以上の付加価値も味わうのです。
平成16年に開湯した嵐山温泉の泉質は、単純温泉(低張性弱アルカリ性温泉)で、肌あたりがやわらかく、つるり、なめらか。美人の湯といわれています。
浴用の適応症としては、神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・うちみ・くじき・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進など。
京都に数少ない、天然温泉。
有名な温泉地ではありませんし、あまり大きな浴場ではございませんが、嵯峨野散策を楽しんだ後は、大理石と御影石の調和が美しい嵐山天然温泉が旅の疲れを心から癒してくれます。
小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
今ひとたびの みゆき待たなむ
鎌倉初期、藤原定家が百人の歌人から一首ずつ
計百首の歌を撰集した「小倉百人一首」。
その歌の中に、小倉山を詠んだ歌があります。
弊亭の「碧川閣」客室からの展望は、小倉山、
愛宕山そして北山の連峰に抱かれた嵯峨野の里と眼下の大堰川の清流を一望におさめて、
まるで絵巻物をみるようです。
夕焼け色に染まりゆく嵐山、
早朝の澄んだ空気に包まれた嵐山…。
その昔、大宮人達も愛したという嵐峡の風景。
朝夕の静寂と自然が奏でる風情は千年の時を変えることなく訪れる人の心を和ませてくれます。
旅館の良さとは、和の文化を感じられるところにあります。
千二百年の長い歴史の中で培われてきた京都の暮らしの中には、
京都独特の作法やしきたり、風習があります。
その所以は、相手を思いやる心から。
しかし近年は、便利さと引き換えに温かい心や、思いやりの心が
失われてきたように感じます。
人が人をもてなす。
私共はお客様に、今日では忘れがちな「気配り」や「温かい心」
「思いやりの心」を大切にしたおもてなしを心がけ、小さな感動を
おみやげにお帰りいただきたいと願っております。
大覚寺のある上嵯峨村では、享保六年(1721)に三八三軒のうち、一八七軒が旅籠屋であったという記録が残っているのですが、おそらくは洛西にある寺院への参詣や愛宕詣での人びとがここに足をとめたのであろうと思われます。
「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕山へは月参り」とうたわれ、人びとの愛宕山への信仰が、
京都やそれ以外の地から「火迺要慎」の火難防除の護符を受けるために、愛宕講をかけて
愛宕詣でへとこの上嵯峨の地に大勢の人の足を運ばせました。
明治二十年頃には、釈迦堂清凉寺の門前に五、六軒の旅籠屋が軒を連ねておりまして、
その中の一軒に「きくや」がありました。
そして明治三十年四月一日に、初代の古川金治郎は、この「きくや」を譲りうけまして商いを
はじめ、その後増改築をして賑わっておりましたが、やがてだんだんと交通の便がよくなり、
愛宕詣での泊り客が次第に減少していったのです。
そこで、初代金治郎は大正年間に入ると、身内の反対を押し切って南の嵐山の地へと移転することに
意を決しました。
その最初の足がかりが、中ノ島公園内の茶屋でいまの松風閣の場所であり、住まいは山手の秀山閣の
ところにありました。いままでの「きくや」という屋号も、新しい移転先がちょうど渡月橋の畔なので、「渡月亭」と改めました。そのとき、二代目の英一は十三歳でした。
それから間もなく、碧川閣のところにも館を建ててその地歩を固めていったのです。
その後、幾星霜を経て、次々と改築や新築を重ねながら、現在の碧川閣、秀山閣、松風閣へと姿を
整えてまいったのでございます。
千二百年の歴史都市、京都。
その京都の西にある嵐山は、平安時代、貴族の別荘の地でありました。
「嵐山」とは大堰川の渡月橋南詰にそびえる標高381.5メートルの山の名称であり、周辺一帯の地名です。
「嵐山」地名の由来は、その昔、現在の嵐山の山際を流れる山を“アラス山”と云っていたといい、いつしかそれが“アラシ山”に変化していき、
“嵐山”となったという説や、嵐山はその名の通り、辺り一帯を強い風が吹き、桜や紅葉を吹き飛ばしてしまうから、とも云われているそうです。
このあたりは国の史跡・名勝に指定されており、春の桜や新緑、夏の鵜飼、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々に様々な風情が楽しめます。
また、弊亭よりすぐの渡月橋向こうにある「小倉山」は藤原定家が「百人一首」を撰集したことでも有名です。
その嵐山のシンボルともいえる、渡月橋。全長155メートル、幅11メートル。
平安時代、承和年間(834~848)に僧・道昌が架橋したのが始まりとされます。
名前の由来についての歴史は古く、鎌倉時代、第90代亀山上皇(天皇・1274~1287)が当時、現在の嵐山天龍寺のある場所に亀山庭園を持っており、曇りのない夜空に月がさながら橋を渡っていくように見えた様子から「くまなき月の渡るに似たり」と感嘆されたことから“渡月橋”と命名されたといわれます。その頃の渡月橋は現在の位置より200メートルほど上流にあり、渡月橋は亀山庭園の庭にかかる橋で、かつては法輪寺橋と呼ばれていたといい、川の南詰にある法輪寺参拝のために設けられた橋であったといいます。その後、度重なる洪水や応仁の乱で焼失し、現在の位置には江戸時代の商人・角倉了以が架けたとされます。
現在の渡月橋は1932年に洪水により橋の部分が流出した為、昭和9年(1934年)6月に、新たにコンクリート橋として完成しました。
一目には木造に見えますが、橋脚、橋床は鉄筋コンクリート製、欄干部分は
景勝地である嵐山の風景に溶け込むよう、総檜製となっています。
「渡月橋」の揮毫は、天龍寺前官長・故・平田精耕氏。
今や渡月橋は、映画やテレビドラマのロケ地に多く使われ、観光の記念写真
撮影スポットとして、定着しています。